隣に座る男は、何やら機嫌が良い。

他の者から見れば、別段変わらぬ無表情に見える。
伏目がちの瞼も、硬く閉じられた口も、威圧的なものとして映るのであろう。
併し、図らずも男は十年来の朋友だ。
彼の男は、当の本人は気付いてはおらぬのであろうが、存外に解り易いのだ。
瞼の奥の蘇芳の瞳は柔らかく在り、猪口を持つ手は普段より幾らか軽やかに上下している。
其の事に気付ける程、長く共に在ったのだ、と何やら感慨深いものすら感じてしまう。
だが、そんな己ですら此の男の全てを知っている訳では無い。
時折、新鮮な驚きを伴って俺を楽しませるのだ。

御前より賜った酒を携えて彼の男の部屋を訪ねてみれば、
男は、行灯の灯りの下で行儀良さ気に正座し、書物を読んでいた。
此方を然して気にもせず、熱心に読書をしていた。あの男が、だ。
其の様子ですら十分に可笑しいと云うのに、其の書物が詩集となると
堪えていた笑いが一気に噴出し、止まらなくなった。
詩集だと知って持ってきた訳では無い様なのだが、存外に気に入ったらしく
読んでの感想を述べると、理解出来ぬ、と云う顔で此方を見てきた。

解っている。此の書物の魅力は、そんな物ではないと云うことは。
どろり、とした悪意にも似た、如かして強烈な印象を持って脳髄を侵すその
言葉の、何と甘美な事か。
嘗て空に在った者ならば、恐らく誰もが感じるであろう、生きる事と死ぬ事への実感。
一度知ってしまえば最早逃れえぬ、恐れと熱望。そして静けさ。
其れに近いものが、この詩には込められている様に思えてならないのであろう。
惹かれている己を偽る事は出来ぬ。しかし、自分は其れを否定した。
空を忘れられぬ故、こうして今も剣を握っていると云うのに、
其の振り下ろす先を、己の信念を持って決める事は、もう出来ぬ。
そうして生きて往く事を選んだのだ。己で。
主を持たぬ事を恥、だとは云わぬ。併し自分は仮令どの様な主でも
仕える事、其れ自体に執着してしまった。
変わって往く時代に、縋り付く様に。必死に。
そんな己の誘いに乗った此の男は、其れでも空を忘れてはいない。
純粋に在る事を止める事の出来ぬ此の男を、自分は羨んでいるのかもしれない。

随分と酔いが廻ってきた様だ。普段は考えも付かない様な事まで考えてしまう。
酒に弱い、と云う事は無いが、今宵は美しい夜だ。まあ、良いではないか。
熱い身体を重力に任せて後方へと倒す。
もう夏も終わりだ。肺に吸い込む空気が冷たく、心地好い。

「ヒョーゴ?」

微睡の中で、彼の男の声が涼やかに反響する。
低く、掠れる様でいて、凛とした響きを持つ男の声は、美しいと思う。
眼前に広がる満天の星空と、淡く灯る月の何と美しいこと。

世界は、こんなにも美しいのだ。
今が何であれ、好い方向へ進んでいくさ。
我等とて、此の美しさの一部なのだから。
いつの日にか、遠い記憶となって、此の夜を思い出す日もきっと、来る。
其れで良い。


さらり、と髪を撫でる感触。処暑の夜風がそうしているのだろうか。
暗闇へと落ちて往く意識の中で、ぼんやりと思った。
此の侭此の部屋で眠る訳にもいかぬ。併し、髪を梳く感触が何とも心地好い。
微かに暗闇が深く成り、唇の上を何かが掠って往った様に思ったが、
重く柔らかな眠りの淵で、其れは遠退き、闇の中へ零れ落ちて往った。





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